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2012年6月12日火曜日

マスキュリン。

どこかの女性誌の紙面でみた「マスキュリン」という言葉。
たいていの言葉は、初見であっても前後関係から意味がなんとなくつかめるものだが、これはさっぱり分からなかった。なので調べてみた。

「マスキュリン」とはフェミニンの対義語で、「男性らしい有り様」を示す言葉だそうだ。つづりはmasculine。
フェミニンは「女性らしい有り様」のことで、つづりはfeminine。

この「フェミニン」という言葉、女性向けの本にはよく出てくる。「女らしい」という意味なのだけど、自分はなんとなく「フェミニズム」のほうにつながりを感じてしまう。
「フェミニズム」は女性という立場を自覚的にとらえ、男女同権を強く押し出すという印象がある。なので、「女らしい」という印象からは少々外れた感じを受ける。

男の立場としては、男らしさを表現する横文字としては「ラフ&タフ」、「ラギッド」、「ワイルド」などになじみを感じる。フェミニンに対置される言葉としてのマスキュリンは、やはり女性用語なんだなー、と思った。
同じ世界に生きていても、違ったボキャブラリの範囲を持っている。この「マスキュリン」を知ったのは、歯医者の待ち時間でたまたま手に取った女性誌から。たまにはちょっと男女の垣根を越えてみるのも面白い。

2012年6月11日月曜日

学校。

現代の日本では、行ったことがない人はいないと断じていい「学校」。
でも、それってどういう意味だろう? と考えた。「学」は文字通り「まなぶ」。でも、「校」については思い当たる意味がない。

活字業界用語の「校正」や、昔の盲人の官職名である「検校」という言葉は知っていた。けれど、やはり「校」の文字そのものの意味はイメージが湧かない。なので調べてみた。

「校」の字は訓読みで「かせ・くらべる」と読む。
「交」は、人が脚をX字形に交差させたさまを図案にしたもの。そこに「木」へんがついて、木の棒をX字形に組んださまを表す文字になっている。
木と木が交わるように、人と人が教える・教わるという形で交わることから「まなび、まじわる」意味で「学校」ということのようだ。
「校正」の場合は、原稿と出力物とを「くらべて、ただす」という意味だろう。

「校」の文字には、ほかにも刑具や処刑場・軍営の柵という意味もある。同じく木を交わらせて作られたモノだ。
さらに、そこから転じて武官の役職名にも使われるようになる。「将校」の「校」はこれが由来。
さらにさらに、言い合い・ディベートを意味する「校論」という言葉もある。だんだんアグレッシブで物騒な意味になってきた。


僕は、学校というものはなかなか楽しかったと記憶している。いい先生も友達もいた。
翻って、同級の中には「退屈で退屈でしょうがねぇよォ」という人も、「飛び出して今すぐ働きたい!」という人もいた。どちらも今まで続いている親友たち。感じ方は様々だ。
学校がやりたくない勉強をさせられる「学びの枷」になるか、生涯の師・友と「学び交わる」場所になるか。誰にとっても後者であることを切に願う。

2012年6月5日火曜日

島嶼。

家族が「しましょぶ」と言った。
それを聞いてすぐに分かった。ああ、「島嶼部」のことか、と。
これは「とうしょ」と読む。「嶼」とは小さな島のことだとか。

浜松町の近くに、「島嶼会館」という建物がある。なんに使うんだろ?と思って調べてみると、どうやら東京都の島から来た人々が会議をしたり、宿泊したりする施設のようだ。
現在は東日本大震災による設備の損傷で旧館しているそうだ。新・島嶼会館のオープンも予定されているので、直すことはないという判断だろう。

東京都には島が330もあるそうだ。これはオドロキ。
うち人の住んでいるのは13。となると、この残りの317島には人が住んでいない。
どのくらいの大きさを以て「島」と称するんだろう?沖ノ鳥島くらい小さければ「嶼」になるんだろうか。
島の大きさは国際法上は定義がないらしい。その領海内の国が「島です!」と言えば島になる。
沖ノ鳥島、ただの岩礁にも見えなくもないが、あれは島。島です、間違いなく島。

自分は東京に住みながら、小笠原諸島はじめどの島にも行ったことがない。以前、祖父の友人がくさやをよく送ってくれた。
これは八丈島の特産。お役人がせっかく獲れた魚を持って行ってしまう(税金代わり?)ので、怒った島の人が魚の身に魚のハラワタを塗りつけたそうだ。
それを目の前にしたお役人たちが「臭や、くさや」と言ったことが名前の由来だと聞いた。

自分はくさやが大好物。焼いてしょうゆに漬けたくさやは、噛めば噛むほど味が染み出る。
青空の下、くさやがズラリと並べて干されている風景。一度は行ってこの目で見てみたい。