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2012年10月30日火曜日

ディケイド。

「仮面ライダーディケイド」という特撮作品があった。2009年の放映。
自分は仮面ライダーには興味がない。が、甥っ子2人は大好きで、ずっと特撮のDVDやyoutube動画ばかり見ていた。
「ディケイド」ってどういう意味だろう? との疑問はアタマをよぎったものの、特別深追いせず放っておいた。
さて、今日(20121029)のTHE DAILY YOMIURI紙に「decade」が出てきた。ディケイドだ。せっかくの機会なので、調べてみた。

decadeは「10年間・十年代(2000~2010)・10を単位とするセット」のことだという。
この単語を見かけた原文の中には「The arrival of Hurrycane Sandy」とあった。10年に1度の威力をもたらしかねないハリケーン「サンディ」についての新聞記事だ。

先の仮面ライダーに戻ると、ディケイドには「ボディの至る所に「10」を意味する「十」・「X」の意匠が取り入られている」そうだ(ウィキペディアより)。
それでも分からない。一体どういう意図でディケイドという名前にしたのだろう。

2012年10月18日木曜日

ひかがみ。

少々古い本を読んだら、「ひかがみ」という言葉が出てきた。
「こめかみ」のような体の一部だろうという事は分かったけれど、どこだか分からない。なので調べてみた。

「ひかがみ」は「膕」または「膝窩(しっか)」「引屈み」と書く。
部位は膝の裏の窪んでいるところ。「ひきかがみ」の転。
別名はうつあし、よぼろ、ひっかがみ。

単に「ひざうら」でないあたり、日本語は言葉の充て方が細やかで奥が深い。
英語を読んでいて思うのは、日本語なら専門用語が充てられるような言葉も、平易な言葉の組み合わせで表現されていること。何か特別な言葉が充てられていると思って辞書を引いてみると、知ってる言葉の羅列で「えーっ、そんななの!?」と驚く事が少なくない。これはひとつの言葉が幅広い通有性をもつということでもある。
奥は深くないけれど、幅が広い。なんだか文字の縦書きと横書きとの対比のようで面白味がある。

2012年10月11日木曜日

げに。

「げに恐ろしきは人の心なり」といった文脈で使われる「げに」。
「げ」がなんなのか分からない。なので調べてみた。

漢字で書くと「実に」。いきなり意味が解ってしまった。
「現に」から転じたものとの説があるそうだ。「確かに」という意味もあり、英語のcertainlyに近いかも。

2012年10月3日水曜日

料峭。

【料峭】は、俳句で使う春の季語。
読みは「りょうしょう」。
意味はというと、春風が肌に寒く感じられること。
【峭】は「けわしい」と読み、山の細く鋭く尖ったすがたを表す。転じて、キビシイことをいう。「春寒料峭」という四字熟語があるそうだ。
【料】はというと、よく分からない。漢字源をみると、意味のひとつに「はかる。手でなでてみて、見当をつける。」とあるので、「山の険しきを肌で感じる」とでもいう意味だろうか。やっぱり正直よく分からない。

俳人の櫂未知子さんが、ずぅっと前に句会に出た時、この言葉を「りょうたこ」と読んだという笑い話をしていた。友人とタコ料理の事だろう、と勝手に納得していたものの、俳句の意味が通じないのでおかしいな?と思ったとか。
自分もいま俳句を勉強中。何も知らなくても俳句はできるけれど、季語を知ってると言葉の新味というか、面白みが出る。働くにつけ楽しむにつけ、やはりその世界なりの勉強は欠かせない。

2012年10月1日月曜日

貪婪。

きょう(2012年10月1日)の読売新聞、1面広告欄の右下に「貪婪な嘘つき国家には報復を」という見出しが目に入った。雑誌「正論」11月号の広告だ。
……読めない。どうせいい意味ではないのはわかる。でも気になるので調べてみた。


《貪婪》。
読みは【どんらん・とんらん・たんらん】。
意味は、要するに強欲。《婪》は「むさぼる」で、《貪》と同じ。

ほかの見出しも見ると分かる。愛国系の雑誌だ。大阪に住む母の知り合いの家で読んだことがある。

この手の雑誌の中にも、確かに正論もある。けれど、妙な意見の統一性のため、その記事も多くの人には読まれずに埋もれてしまう。
アタマに血の上った人の意見は誰も聞かない。いや、聞けない。その内容以前に、いきり立った感情に圧されてしまう。本当に気持ちを同じうする人を拡大したいなら、静かに理を説かないといけない。

「履く」と「穿く」。

「穿く」と「履く」は、よく使い分けを間違われる言葉の代表格。

ズボンは「穿く」。これは「うがつ」とも読むので、脚通りのよくないタイトなジーンズなどに「えいっ」と力を入れて脚を貫き通すイメージがつかみやすい。
対する
これに対して、靴は「履く」。これについては豊臣秀吉が織田信長の草履取りだったエピソードが覚えるのに役立つ。

ある雪の日、信長が庭に出ようと、木下藤吉郎(秀吉)の差し出した草履に足を載せたところ、生暖かい。

信長「む!サルめ、草履を尻に敷いておったな

と問い詰めると、すぐさま

藤吉郎「いえ、懐に入れて温めておりました

と答えたという。有名すぎるので皆知ってるだろう。
ここで大事なのは「草履」。

【秀吉=草取り=足に身につけるもの=履く

という連想で、「穿く」と「履く」は使いこなせる。

さて、じゃあ靴下はどっちだったっけ?? 服や下着類と同列に考えるなら「穿く」だし、靴と同列に考えるなら「履く」。靴下ならその上に靴を履くけれど、地下足袋のように靴の代わりとして地面に直接触れるモノもある。どちらともとれる曖昧な位置。

ということで、さっそく調べてみた。
先に結論から言うと、これはどちらも有り得るようだ。表記ゆれの範囲内と思われる。
ぐぐると最初に出てくるYahoo!知恵袋の記事では、パンストについてが微妙で面白い。足も脚も腰も覆うのだから、どちらにもとれる。
別の記事では、靴下は「穿く」としているが、典拠は不明だった。衣服ととるか、はきものととるかの解釈の違いと思われる。文章を作るときにはひらがなにしておくのが無難だが、やはりマイルールとしては白黒つけたい。

なので、自分の考えでは、

「脚を徹す=穿く」で、「足を覆う=履く」。

脚と足で使い分けるとスッキリすると思う。


「はく」には他にも「佩く」「着く」「帯く」があるのだとか。ここまではツッコまないでおくことにしよう。

《誇り》と《プライド》。

《誇りと《プライド》。この2つの言葉、同じ意味ながら、使われ方に差があるように思う。


プライドというとき、例えば「プロとして仕事にプライドをもて」というように、肯定的な意味合いで使われる場合だけでなく「あの人はプライドが高いから……」というように、否定的な意味合いを含む文脈でも使われる。
プライドには「小さなプライド」という意味をも内包しており、両価的に用いられるようだ。


「プライド」で辞書を引いてみる。
大辞林では【誇り。自尊心。自負心。】広辞苑では、これに加え【矜持】が入る。
《誇りと《プライド》、やはり意味するところは同じといっていいだろう。
けれど、《誇り》はそれ単体では肯定的な意味合いのみに使われると思う。《矜持》もそれに近い。
「自尊心」は否定的に使っていることも勿論ある。中島敦『山月記』では、非常に有名な「臆病な自尊心」というフレーズが出てくる。けれど、これは「臆病な」とわざわざ前に付けてのこと。
なぜ外来語としての《プライド》がネガティブなニュアンスなのか、ちょっとだけ不思議。

2012年9月11日火曜日

途轍。

ふつう、「途轍もなく◯◯だ」という文脈でのみ使われる「途轍」。
じゃあ、途轍ってなんだ。早速調べてみた。

字義からすると、

途=道。
轍=わだち、つまり泥道に車輪のつけた溝。

道にできた轍。転じて、物事の道理をさす言葉だそうだ。
「途轍もない」を大辞林を引くと、「道理に合わない。とんでもない。とほうもない。」とある。
道理に合わない、という意味なのは意外だった。「おおいぬ座VYは途轍もなく大きな星」というように使っていたけれど、いくら超巨大であっても、別に道理を外れてはいない。ほとんど「途方もない」と同じに使っていたけれど、使い分けが必要そうだ。



2012年6月12日火曜日

マスキュリン。

どこかの女性誌の紙面でみた「マスキュリン」という言葉。
たいていの言葉は、初見であっても前後関係から意味がなんとなくつかめるものだが、これはさっぱり分からなかった。なので調べてみた。

「マスキュリン」とはフェミニンの対義語で、「男性らしい有り様」を示す言葉だそうだ。つづりはmasculine。
フェミニンは「女性らしい有り様」のことで、つづりはfeminine。

この「フェミニン」という言葉、女性向けの本にはよく出てくる。「女らしい」という意味なのだけど、自分はなんとなく「フェミニズム」のほうにつながりを感じてしまう。
「フェミニズム」は女性という立場を自覚的にとらえ、男女同権を強く押し出すという印象がある。なので、「女らしい」という印象からは少々外れた感じを受ける。

男の立場としては、男らしさを表現する横文字としては「ラフ&タフ」、「ラギッド」、「ワイルド」などになじみを感じる。フェミニンに対置される言葉としてのマスキュリンは、やはり女性用語なんだなー、と思った。
同じ世界に生きていても、違ったボキャブラリの範囲を持っている。この「マスキュリン」を知ったのは、歯医者の待ち時間でたまたま手に取った女性誌から。たまにはちょっと男女の垣根を越えてみるのも面白い。

2012年6月11日月曜日

学校。

現代の日本では、行ったことがない人はいないと断じていい「学校」。
でも、それってどういう意味だろう? と考えた。「学」は文字通り「まなぶ」。でも、「校」については思い当たる意味がない。

活字業界用語の「校正」や、昔の盲人の官職名である「検校」という言葉は知っていた。けれど、やはり「校」の文字そのものの意味はイメージが湧かない。なので調べてみた。

「校」の字は訓読みで「かせ・くらべる」と読む。
「交」は、人が脚をX字形に交差させたさまを図案にしたもの。そこに「木」へんがついて、木の棒をX字形に組んださまを表す文字になっている。
木と木が交わるように、人と人が教える・教わるという形で交わることから「まなび、まじわる」意味で「学校」ということのようだ。
「校正」の場合は、原稿と出力物とを「くらべて、ただす」という意味だろう。

「校」の文字には、ほかにも刑具や処刑場・軍営の柵という意味もある。同じく木を交わらせて作られたモノだ。
さらに、そこから転じて武官の役職名にも使われるようになる。「将校」の「校」はこれが由来。
さらにさらに、言い合い・ディベートを意味する「校論」という言葉もある。だんだんアグレッシブで物騒な意味になってきた。


僕は、学校というものはなかなか楽しかったと記憶している。いい先生も友達もいた。
翻って、同級の中には「退屈で退屈でしょうがねぇよォ」という人も、「飛び出して今すぐ働きたい!」という人もいた。どちらも今まで続いている親友たち。感じ方は様々だ。
学校がやりたくない勉強をさせられる「学びの枷」になるか、生涯の師・友と「学び交わる」場所になるか。誰にとっても後者であることを切に願う。

2012年6月5日火曜日

島嶼。

家族が「しましょぶ」と言った。
それを聞いてすぐに分かった。ああ、「島嶼部」のことか、と。
これは「とうしょ」と読む。「嶼」とは小さな島のことだとか。

浜松町の近くに、「島嶼会館」という建物がある。なんに使うんだろ?と思って調べてみると、どうやら東京都の島から来た人々が会議をしたり、宿泊したりする施設のようだ。
現在は東日本大震災による設備の損傷で旧館しているそうだ。新・島嶼会館のオープンも予定されているので、直すことはないという判断だろう。

東京都には島が330もあるそうだ。これはオドロキ。
うち人の住んでいるのは13。となると、この残りの317島には人が住んでいない。
どのくらいの大きさを以て「島」と称するんだろう?沖ノ鳥島くらい小さければ「嶼」になるんだろうか。
島の大きさは国際法上は定義がないらしい。その領海内の国が「島です!」と言えば島になる。
沖ノ鳥島、ただの岩礁にも見えなくもないが、あれは島。島です、間違いなく島。

自分は東京に住みながら、小笠原諸島はじめどの島にも行ったことがない。以前、祖父の友人がくさやをよく送ってくれた。
これは八丈島の特産。お役人がせっかく獲れた魚を持って行ってしまう(税金代わり?)ので、怒った島の人が魚の身に魚のハラワタを塗りつけたそうだ。
それを目の前にしたお役人たちが「臭や、くさや」と言ったことが名前の由来だと聞いた。

自分はくさやが大好物。焼いてしょうゆに漬けたくさやは、噛めば噛むほど味が染み出る。
青空の下、くさやがズラリと並べて干されている風景。一度は行ってこの目で見てみたい。

2012年5月29日火曜日

衍字。

この活字社会、誤字・脱字というのはときたま目にする。
ありがちなのが、「がんんばる」のように、ミスタイプによって余計なひと文字が入るパターン。
さて、こういうのをなんと言うんだっけ? と思いをめぐらしたところ、記憶の海から言葉を拾い上げられなかった。


んで、調べてみた。
「衍字」というそうだ。読み方は「えんじ」。校正用語らしいが、初見だった。


こうした余分な字に「字余り」という言葉を充てている例もあるけど、これは正確でない。
短歌や俳句など決まった定型がある文章の中でセオリーを外す、もしくは誤って多くなってしまったものを指す。「字足らず」という対義語があることからも分かるように、誤字・脱字の仲間にするにはちょっとニュアンスがズレる。


衍字に限らず、誤字・脱字というのは印刷や出版、広告など、活字に関わる世界では本ッッッ当~に付き物だ。何度チェックしても、ダブルチェックをしても、どこかに漏れが出てくる。

とくに、広告上でミスに気付いたときは、胃の下がキュッとなる。
以前、ある革製品メーカーの新聞広告で「おかげさまで創立20周年」というフレーズを見たことがある。他の行には「伝統」とも。20年くらいで伝統はないんじゃないかな? と思ったら、ほかの部分に1890年創立と書いてあった。
120年なら充分伝統を謳っていい。つまりは「1」が抜けていたということだ。こういうのを見ると、人のミスとはいえこちらの心臓に悪い。

自分も以前勤めていた会社で、取引先の社長の名前を間違えるという致命的なミスをしたことがあった。1月2日に大阪まで誤り……じゃなかった、謝りに行った。ミスが発覚したのは師走も押し迫った27日の事。あのときの正月は生きた心地がしなかったのを覚えている。

で、そうしたミスをすることで、以後は細心の注意を払うようになった。体が恐ろしさを覚えたということだ。立派に見える世の人たちも、何度となくこういう死にたくなるようなミスをして成長するのは、誰の口からも聞く。立派になるのは簡単じゃないな、と思う。

2012年5月27日日曜日

迚も。

古い日本の小説を読んでいると、しょっちゅう難しい漢字に出会う。
とくに、今でも日常で使われている言葉に漢字が使われているのをみると、俄然興味が湧く。


今回のタイトルは「とても」と読む。「とてもおいしい」「とてもじゃないけどムリ」の「とても」。
「とてもだめだ、できない」というように、本来はこの言葉の下に打消しや否定的表現をつけて、否定の意味を強調するように使われていたそう。
それが否定の意味合いが薄まり、純粋に強調だけのイミとなった流れは「全然」と似ている。

なお、「どうせ~なら」とか「所詮は~」というような、ヤケクソなニュアンスもあるそう。これは現代ではあんまり使わないけれど、江戸の人びとの勢いあるしゃべりに似合いそうな気がする。


んで、この「迚」が何なのか? という疑問。
これ、「(しんにょう)+中」で、道半ばを表すもの。「しんにょう」は道や歩くことを意味する。「中」はそのまんま。
へんとつくりの意味を合わせて作られた日本製の文字(国字)で、漢字のふるさと中国にはなかったそうな。


引かれている例をみると、


「迚も、地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)


のように、少なくとも鎌倉時代以前にはあった文字。
こういう創作文字はほかにも少なくとも1000近くはある。一体どんな人が、どんな状況で作っていったのだろう。こういうのを知るたびに、整然としてあるかのように思っていた「日本語」というものが、さまざまな紆余曲折によって蓄積されていった歴史に触れられる気がして楽しい。

2012年5月25日金曜日

tweet女将。

家族との会話で、高級料亭「吉兆」の話題が出た。
政治家や有名人が利用する、名に聞こえた高級料亭が、その金看板にあるまじきケチな料理の使い回しをしていた件で、幾度もニュースとなった例の事件の店だ。

「まだ吉兆ってやってるんだね、あんな不祥事があったのに」と母。
へー、そうなんだ。でも倒産したような……? と思い、ぐぐってみた。

するとwikiの「船場吉兆」の項目が引っかかったので読んでみると、料理の使い回しで事件になったのは「船場吉兆」。創業者の三女(の娘婿)にのれん分けされたグループ会社だった。
以下はwikipediaの記事。

吉兆グループ(本吉兆、京都吉兆、神戸吉兆、東京吉兆)とはグループ内であったものの定期的な会合を行う程度で資本関係は一切なく、営業方針もそれぞれに委ねられていた。」(参照元:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%A0%B4%E5%90%89%E5%85%86#.E5.AE.A2.E3.81.AE.E9.A3.9F.E3.81.B9.E6.AE.8B.E3.81.97.E3.81.AE.E5.86.8D.E6.8F.90.E4.BE.9B


これは知らなかった。吉兆はひとつじゃなかったのか。
船場吉兆は本家である「本吉兆」があるのと同じ大阪での大不祥事。世間の風当たりもさることながら、グループにどれほど泥を塗ったか。親族からどれほど怒られたろうか。強欲から生じた自業自得とはいえ、考えただけで胃がキュッと縮む。




さて。
この事件では、記者会見で矢面に立つ長男に対し、湯木佐知子社長が腹話術のように話す内容を指示する様子がTVで流れた。僕はこれを「つぶやき女将」と記憶していた(実際はささやき女将」という呼称の方が多く流布している模様)。
2012年現在、つぶやきと言えばツイート。なので、「ツイート女将」って呼ばれてないかな? と思い、ぐぐってみた次第。
でも、「ツイート女将」「ツィート女将」「tweet女将」のどれでぐぐってみても1件もヒットしなかった。
これは意外。twitterが世に一般化するよりちょっと前の事件だったということだろう。
なので、インターネットの海に初めて放たれる(多分)文字列としての誇りを込めて「tweet女将」をタイトルにした。誇らしい気持ちで一杯である。


考えてみれば、今や誰でも知っているtwitterだって、日本語版の公開は2008年4月23日。たった4年前に登場したものだ。時の流れの速さを改めて感じる。

2012年5月15日火曜日

初音。

「初音」といえば、「初音ミク」。
これはもはや現代のネット常識と言っていいと思う。


さて、地元から少々離れた場所に買い物の用事があった。
なので、自転車に乗って出かけ、用を済ませた後でぶらっと周りを走っていたら「初音森神社」というのがあった。

僕は「初音」はVOCALOIDシリーズの開発元であるクリプトン・フューチャー・メディア株式会社の造語だと思い込んでいた。初代のボーカロイドなので、
なので、「初音」という言葉が昔からあったことにちょっとした驚きを覚えた。



五角形の立札に書かれている由緒を読むと、鎌倉時代の創建とある。となると、少なくとも約700年前にはあった言葉ということになる。
その意味は『鳥の、その季節に初めて鳴く声。特に、鶯についていう。』(大辞林)
他の辞書を調べてみると、虫の声についても使うようだ。当然、春の季語になっていた。


「初音」……とてもきれいな言葉だ。
てっきりキャラクターボーカルシリーズの最初のキャラだから「初音」なのかと。名づけた人は素敵なセンスの持ち主だと感じる。

2012年4月17日火曜日

獺祭。

PCに向かっていた母が「これなんて読むの?」と聞いてきたので、画面を覘いてみた。
すると「獺祭」という名前の酒粕。母はネット通販で酒粕を探していたようだ。
「らいまつり」かな?と思ったけれど、言葉erとしてはあいまいにしておけなかったので、さっそく調べてみた。

すると「獺祭=だっさい」と読むことが分かった。
こりゃ初耳。MS-IMEでもちゃんと一発変換できる。

「山口県岩国市の地酒。日本酒。日本最高峰の精米歩合を誇る。旭酒造株式会社が製造、販売している。」(はてなキーワード)

「獺祭」は日本酒の名前だということは分かった。母が見つけたのは、このお酒の酒粕。
でも、名前の由来は分からないまま。なので続けて調べてみる。


『晩唐の詩人・李商隠が、読書をする際書籍を部屋中に広げて読んで詩文を書いたことが、カワウソが獲物を広げた様に似ていることから生まれた言葉。』(同上)


へー。でも、紙を部屋中に散らかしていることがカワウソに似ているというのが分からない。
なので更に調べる。


すると、『獺祭=「獺祭魚」の略。かわうその祭り。(大辞林)
そして「獺祭魚」は、カワウソが捕った魚を川岸に並べることらしい。見たことないので分からないけれど、獲物を並べてキャッホーと喜んでるんだろう。
その様子を、人が祭りのときに物をお供えするのに見立てたものだそうだ。なるほどー。


で、李商隠という人は詩を作るときに参考書籍をカワウソの魚並べのように広げ、自ら雅号を「獺祭魚」としたそうな。だから獺祭=参考書を広げまくるという意味になったワケだ。
また、更に転じては詩文に多くの故事を引くことも意味するらしい。

正岡子規は獺祭書店主人と号したそうで、子規の忌日(9月19日)を「獺祭忌」と言うんですって。ブンガクの香も高い言葉なんだね。

2012年4月16日月曜日

為体。

読みは「ていたらく」。
「体たらく」という書き方の方がなじみのある人が多いと思う。
んで、たらくって何?  と思って調べてみた。

すると、大辞林によれば
『「体(てい)たり」のク語法。』だそうな。今度は「ク語法」がわからない。さらに調べてみる。

【ク語法】
『活用語の語尾に「く」が付いて、全体が名詞化される語法』だそうだ。
「願わくば」とか、「惜しむらくは」とかと同じものみたい。「願わくは」は、本来は「願はくは」と書くものだったようだ。でも「願わくは」の方しか見た事ない。


で、話は戻って「体たらく」。原意は「ようす、ありさま」の事だそうだ。
現代では「ったく、この体たらくだよ」というように、ネガな使われ方がメイン。ニュアンスとしては「このザマだ」って感じだろう。


なお、イラストレーターに「羽音たらく」という人がいる。ペン画で締まった黒の使い方をする人で、地力のしっかりした絵がぼくの好みに合う。
名前の由来がわからなくて、ずいぶん前に「たらく」で調べてみたけれど、意味はわからなかった。
「体たらく」の「たらく」と関係があるんだろうか。ちょっと気になる。

2012年4月9日月曜日

やおら。

先日、ある議員が国会の質問で「○○な人がやおらといるんですよ!」と熱弁していた。

その一瞬はスルーしたけれど、直後「んっ? ”やたら”じゃなくて”やおら”?」と引っかかり、調べてみた。


「やおら」は「徐ら」と書く。「徐ろ(おもむろ)に」と同じで「ゆっくりと、重々しく」という意味。書き文字も同じだ。

だから、冒頭の国会議員の語った内容だと、どうやっても意味が通らない。案の定、誤用だったことが分かった。

その議員の質問内容そのものはしごく真っ当なものだっただけにザンネン。言葉に間違いがあると、内容の信頼度まで下がってしまう。

使い慣れない言葉を使うには、このブログのように間違ってもあまり恥ずかしくない場所で前もって使ってみるのが望ましい。

2012年4月5日木曜日

事始め。

「新しい仕事にとりかかること。物事のはじまり」(大辞林)。



「事始め」とは、事を始めること。勝手に始まるのではなく、能動的な意志を含んでいます。


ぼくたちは日常のあらゆる場面でことばに触れます。

耳からだと、日常会話、呼び込み、アナウンス、街宣、テレビ、ストリーミング、etc….

眼からでは、新聞・雑誌、Webサイト、メール、twitter、SNS、etc….

このブログは、ぼくがそうした言葉に関して思ったこと、感じたこと、調べたこと、世の出来事など、何の制限もなく書き綴ります。


内容も、更新間隔も、何も決めごとはありません。まずは軽くご挨拶まで。